【読書家あるある/本好きテクニック】本好きの本屋における喜びと失望と葛藤と、その結果について

エッセイ

最近はよく外に出るようになった

最近はコロナ感染者が少なくなりようやくインドア派の私も外へ足を向けることができるようになった。仕事もようやく出勤日数が増え、満員の渋谷へ向かう朝の電車にも耐えられなくなってきた頃だ。休みの日はそのストレスから逃れたいがために、朝はゆっくりと寝て、外に出ようと思う日は、午後2時ぐらいから電車に乗るようにしている。もっとも、東京の人はどこから湧いて出てくるんだと思うぐらい休日でも人は多いのだが。平日の7時43分発の電車に乗るときのように足の筋肉を突っ張らないと地面に立ってられないほどではない。

さて前置きが長くなったが、私は本を読むのが大好きである。ごく普通の6畳ぐらいの部屋に少なくとも500冊は本がある。もちろんすべてを読んでいるわけではないが。世の中の読書家はほとんどがそうであろう。読みたいと思う本を買ってストックしておき、直観的にその本を読むべきであると吸い寄せられて初めてその本に至る。むしろ、持ち本のすべてを読み切ってから新しい本を買うという人は、何かに突き動かされ、もしくは何かによって強制的に本を読まされないとそういった行動にはならない。それは私の学生時代のある時期から経験済みだ。「何か」に対する関心なるものがない状態にそうなってしまう。

本好きが本屋に行く頻度・なぜ行くのか

前置きの前置きがまた長くなってしまった。私の文章のクセなんだろうと思う。それが一定の人からしか注目され得ない、支持されない私のブログなのだろう。誰か私のブログを発掘してもらえないものだろうか。シェア、大歓迎です。恥ずかしいけど。ぜひぜひ今後ともよろしくお願い致します。。

ここから題名に仰々しく書いている本題に入る。

休みの日は本屋さん、古本屋さんによく行く。本は一日に200冊は新しく発売されているという。家から本屋までの距離があるため、そういったこともあって私はよく行ったとしても2週間に一度だけである。ということは、200(冊)×14日=2800(冊)。私がぬくぬくしている間に世の中には2800冊もの本が生み出されているのである。その分私はどこかへ取り残されているのではないかと思うこともある。実際に書店員さんは私たち本屋に足を運ぶ者たちを楽しませようと本の陳列を変え、私たちにすばらしい本たちへのアプローチを演出してくれている(本当にたまーにしょうもない本への花道を作って作っている本屋もある。宗教がましい記述をしている一部のビジネス本とか。)本当に頭を使うだろうし、本の移動もしないといけないから大変な仕事だと思う。

本屋になぜ行くのか、というのはもちろん世の中から取り残されないためである。ネットですべてのものが見つかると思っている諸君。これは若い世代から年配の方までいらっしゃるだろう。働き始めてからインターネットなる怪物に出くわした方々からすれば、全知全能の神様のように見えただろう。私もその時代に生まれていたらそう思ってしまうだろう。でもそうじゃない。今でも電子書籍にされない本がたくさんあるし、過去の絶版になってしまっている本なんかは、本屋さんでは見つからず、町のはずれにあるさびれた看板の古本屋さんであっても見つからないかもしれない。つまり、インターネットはそこまで拾いきれない。一見、神のように、天才のようにも見えるインターネットは、本物の神様なんかではない。だからこそインターネット教なる宗教も生まれないのであろう。デジタルな世界には神は生まれない。生まれるのは人々が生活する本当の社会だけであろう。

本屋さんでの喜びと失望と、葛藤と。

【喜び】

喜び。それは何と言っても本に囲まれることであろう。誰かが命がけで時間をかけて調査し、書き上げた本たちは、絶対に自分が体験したことのない世界を見せてくれる。それを、本を読むだけで私たちはその人の体験した世界へ入り込み、疑似体験することができる。しかも本は高くとも万を超えない。なんて安い旅行なんだろうか。本を読む人からするとこんなに安い旅行などないのではと本を読まない旅人へ道を教えたくなるものである。本屋さんは顔の見えないだれかと出会う場所。健全な出会い系スポットなのである。

【失望】

失望。それはどんなにたくさん読みたい本があってもスーパーマンでない限り、すべての本を読み切ることは誰にとっても不可能であるということ。私は読みたい本をメモするのに役立つので、Amazonのお気に入りを有効活用している。もちろんメモとしてスマホのメモ機能使うのもいいのだが、そうするのは本が古すぎてAmazonのデータベース上では見つからない時だけ。Amazonの「お気に入り」には私の手元にない本が数えきれないほどある。

読み切るのが不可能なことに加え、お金の問題もある。こちらももちろん限りがある。孫正義さんでも前澤さんでもジェフ・ベゾスさんでもお金には限りがある。ただ、私のような一般人かつ、社会に出てそこまで時間が経っていないような若造では満足なほど本は買えない。そうして本屋さんに行ったときに買いたい本が10冊あったとしても、すぐにその10冊には手が届かない。2、3冊を入念に選び取ってレジへ向かうのだ。残りの8冊はAmazonの「お気に入り」に入ったまま。いや、本屋さんでは先ほど申し上げたようにたくさんの出会いがあるので、あらよあらよと「お気に入り」が増え帰路につくことになる。それは喜びでもあり、すべての本が手に入らないという失望感でもあるのだ。

【葛藤】

失望とリンクしてくるのだが、いつも底が見えかかっている私の財布の中とにらめっこをしながら2、3冊の本を選ぶのは相当な葛藤を強いられる。世の中には、いやこの本屋だけでもこんなに面白そうな、そして今後の人生に役立ちそうな本たちが目の前にあるのにどうしてカバンにすっと収まるぐらいの本しか私は買って持って帰ることができないのだろうかと失望し、それぐらいの本当に少ない冊数の本を選ぶのには時間がありえないほどかかる。私が本屋さんに行ったときに一番時間を使うのは悲しくもなけなしのお金で本を何冊か選ぶその時間なのである。なんて人生のうちの無駄な時間なのであろうか。ただ、今の時点で求められるのは自分の持ち金のうちで、最も今の自分に必要な本を選び取ることである。しょうがない。本をポンポンと気兼ねなく買って、本を選び取る時間を本を読む時間に充てられるようになるのはいつなんだろうか。

そしてその結果・・・

本好きのなかにはよく発行部数が少ないレア本、初版第一刷、すでに絶版になってしまった名作などをコレクションしている人がいる。私は作家のサイン本コレクションが趣味の一つである。「あの作家が私の今開いている本を一度開いて何かをマジックで書きこむという行為をしていたのか」と思うと興奮する。作家となぜかつながれた感じがするのだ。なので本屋に行って好きな作家、読んでみたいと思っていた作家のサイン本なんかがあるとすぐに確保する。するとどういうことが起こるだろうか。

ここまでこんなにしょーもない文章を長々と呼んできてくれたみなさんなら予測できたかもしれないが、サイン本が買える冊数を圧迫してしまう。するとどうだ、なけなしのお金で買いに来ていた私は財布の底が見えてしまいそうなんて言っていたが、実際にはお支払いはクレジットカードかコード決済をするのであり得ないぐらいの金額にいつの間にかなっているのである。その結果、予想していた金額よりもはるかにオーバーして、月末にカード支払額を確認すると空を見上げるようなことになってしまうのである。

ただ、金銭的な観点から見れば、青空を見上げるようなことになってしまうが、大好きな作家の書いた本との出会いがあるので私の心の中は喜びあふれる状態、お花畑の中で読書をしているような状況なのである。

以上

こんな見出しもなかなか無かろうが、本好きには全てでなくても少しは共感してもらえたら嬉しい。最後に、最近のおすすめ本を紹介して終わる。

正しくは本ではなくコミックなのだが、最近流行りの「王様ランキング」作者の話。作者の過去の話を聞いているといつでもチャレンジはできる、我慢しすぎず、自分の「こうなりたい」ということに忠実であることが一番生きやすく楽しいことなんだと気づかされた一冊。

それではまた次の記事まで~!

コメント

タイトルとURLをコピーしました