かぼちゃ読書日記、今回は岸政彦さん、柴崎友香さん共著の『大阪』について綴ります。
本作は、大阪に「来た」岸政彦さんと大阪から「出た」柴崎友香さんから見た「大阪とはなんぞや」ということをつづったエッセイ集です。
このエッセイ集は、お二人がこれまでの人生と大阪という土地の歴史を重ね合わせながら、今の大阪はどのような街になっているのだろうか、今後はどのような街になっていくのだろうかということを綴られています。
かぼちゃ日記を運営しているかぼちゃ太郎本人はいわゆるZ世代で「関東にルーツのある関西人」なのですが、この『大阪』を読んでいると、御堂筋(大阪のメインストリートの一つ。地下鉄も走っている。)は昔はメイン通りじゃなかったんやとか、エレファントカシマシの宮本浩次さんは昔から暴れん坊な感じかとおもいきや意外と静かにパフォーマンスをする人なんやとか、再開発の裏でヤクザやもともとの地主の利権争いなどいろいろごちゃごちゃした話もあったんやなあという現在でも大きなインパクトを残しているモノたちがどう今につながってきているのかということを知ることができ、「大人から話を聞くのはおもろいなあ」といった感じで読んでいました。
あいみょんの曲が聞きたくなってくる、聞くと『大阪』を読みたくなる
そしてなんとなくですが、このエッセイ集を読んでいると、あいみょんの歌が聞きたくなってきます。あのどこか懐かしい風景が見えてきそうな、でもすこしおぼろげな記憶をゆっくりと辿っていく感じ。自分の人生と街がゆっくりと絡んでいく感じ。実際に『大阪』を読みながら聞いていました。それがまさにマッチして、私の中にある「物語」も進んでいきました。
私は先ほども申し上げましたが、生まれてから記憶があるかないかぐらいまでは兵庫、幼稚園から高校までは関東で育ち、大学で一度関西に戻りたいと思い京都へ(中学生で京都に修学旅行に行ってから絶対いつかはこの街に住んでみたいと思っていました)、そして就職をきっかけに再び実家のある関東へと戻ってきました。私は関東歴が長いですが、両親や親戚もみんな関西人で高校を卒業してからはどこに行っても関西弁でしゃべってしまうし、大学では関西の居心地が良すぎるし,社会人になり関東に戻ってきてもまだ関西にいつかは異動になったりしないかなあと思っているぐらいなので「関東にルーツのある関西人」だと思って生活しています。(笑)周りの友人からはお前は明らかに関東の方が長いねんから関東人やろ!と突っ込まれますが、その友人たちがそう言いだしたのは私が関東に長いこと住んでたよ~と言ってからで、普通に話しているときは関西弁なのでいっこも気づいてませんでした。せやから自分はなんぼ周りに関東人やと言われても関西人やと思ってます。(笑)まあ、関西のどこの人やねんと聞かれるとちょっと困りますが、一般的に印象が良く、実際に自分の生まれ、そのあとも何年か住んでいた場所なので「宝塚出身やねん~、歌劇場は興味ないから手塚治虫館しか行ったことないけどな~」と言っています。
ついつい私の関西の話が長くなってしまいましたが、この『大阪』は自分の人生と重ねて読んだり、大阪に昔行ってあそこのカレー屋さんおいしかったなあという旅行の記憶を引っ張り出してきたりするとお二人の視点から語られる大阪の何十倍も『大阪』を満喫することができます。
小説家と小説家・社会学者が語る『大阪』
この『大阪』という作品には柴崎友香さんと岸政彦さんのこれまでの作品や研究や、それには出てこなかったけど普段考えていることをここに書きますといったような話がたくさん出てきます。
柴崎友香さんは東出昌大さん主演映画の原作で2010年に野間文学新人賞を受賞した『寝ても覚めても』や2014年に芥川賞を受賞した『春の庭』を書いている芥川賞作家です。
柴崎さんの「わたしがいた街で」というエッセイでは、小説家になるためにお金を貯めようと就職した柴崎さんが自営業の父親にボーナスの額について伝えると、ボーナスでこんなにもらえるのかと父親が驚愕したエピソードが出てきます。このエピソードで、環境や身の回りのことが物事を見る基準になりがちで、自分とは違う環境にいる人のことはなかなか想像できず、それを越えて外を見ることは思うより難しい。自分もごく限られた状況しか見ていないことを思い知らされてばかりいて、違う価値観や環境に接する中で自分は何がかけるやろかと戸惑い続けている、と柴崎さんは述べています。(p.235~236) このように感じていらっしゃることを聞き、あんなに豊かな世界を描いておられるのに、まだ戸惑っていらっしゃるんだと感じました。どうしても人間その環境になれてしまうと、他の状況に接したときに、戸惑いを覚えてしまいますよね。私は他の人の状況を考えようと思えば、まず本を読みます。本は小説やビジネス書関わらず、その人の目線で描かれたものです。なので、完全に人の頭の中を理解するのは無理ですが、ファーストステップぐらいは踏み出せるのではないかと思います。
そのほかにも実父に対して「この人、かわいそうやな、と思った」という父の子として、親に対する違和感を語っておられます。普段の生活で家族が尊敬できないという方もたくさんいらっしゃるかと思いますが、自分の親に言いたくてもなかなか言えない、その一言が、読者として読んでいる私の心にも突き刺さりました。私も自分の家族の言動には「ん?」と感じることもあり、「家族であっても子どもは子どもの人生である」というメッセージが強く印象に残りました。(それについても他のエッセイで書いています。こちらも興味があればぜひ。)
そして『大阪』の著者のもう一人、岸政彦さんは社会学者で沖縄の研究に関する本を多く書いています。(『同化と他者化ー戦後沖縄の本土就職者たち』や『断片的なものの社会学』や小説『リリアン』、『図書室』)
岸政彦さんは、パートナーのおさいさんが差別に関する研究をされており、「あそこらへん、あれやろ」というエッセイで、大阪に今でも深く残っている部落や在日韓国人への差別問題について述べています。私も専門は差別であったので、岸さんのパートナーおさいさんと同じように、さらっと浴びせられる差別発言には言い返したくても言えず、ぎゅっと手を握り締めてしまいます。被差別部落のある地域に向かうときにタクシーで言われた「あそこは普通のひとが行くとこちゃいますよ、いわゆる同和と言って・・・」(p.117~118)という差別発言に、岸先生は「あんまりそういうこといわんとってな」という穏やかだけど強い言葉で返し、自分もそう言えるようになりたいと強く思いました。(岸先生は授業は取ったことないですが私の通っていた大学の先生なのでどうしても先生と言ってしまいます。ここでも先生表記にしておきます)こういった差別発言に対し、「ささやくように小さい声で、こういうことがいまだに言われているんだと思った」(p.118)、「ただ単に知識がないとか勉強してないとか、そういうことではなく、もっと積極的な何か」(p.119)と述べられており、差別問題を研究していた私がいいたかったことをぎゅっと凝縮している言葉でした。差別は無意識的に誰もが持っているモノではありますが、何らかの偏見をある程度持ち続け、醸成していかないとなかなか差別とはなりません。無意識の中にある意図なのです。
このように、大阪の過去から現在まで人の人生・街の歴史をさかのぼってくると、差別がしたたかに根強く「ささやかれるように」繰り返されている街でもあるのです。街にフォーカスを当てるともちろん楽しい思い出やビルがどんどん立ち並んできてたくさんショッピングモールができてきて遊ぶところがいっぱいになるなど、街の成長も見られますが、一方で大阪の街、そして人々の中にある黒く立ち込める吐息が今も深く渦巻いているのです。
さいごに~大阪出身・関西出身はもちろん、これから大阪を知りたいならぜひ読んで!
最後になりますが、この『大阪』という物語は、今回は柴崎さん、岸さんが二人が紡ぐエッセイでしたが、このエッセイは読む人が10人もいれば、あなたの中の『大阪』が何倍にも広がります。いや、一人でも物語ははるか遠くまで広がっていきます。
この記事のタイトル「それはここにある。それはどこにもない。」は岸先生のエッセイの中の文章です。どこの街でも、私がどこに行っても、街は依然としてそこにあります。街に関する記憶も。でも「あれ、ここ昔なにがあったっけ」「ここは変わってしまったなあ、あそこはずっとかわらんけど」というように、街のどこかは過去の時間と共にどこかへ行ってしまっている。この街の今は、「今」しかないのだ、この風景がずっと残っていくかは誰にもわからない、ということを教えてくれる言葉です。
大阪に思いを馳せるもよし、自分の街はどうだろうと思うもよしな、誰が読んでも世界が広がる作品です。ぜひ読んでみてください。
かぼちゃ読書日記はこちらもぜひ!↓不定期での更新です。ぐっと来た本をおすすめします。

コメント