※こちらの文章は以前書き溜めていたもので、未公開になっておりましたものをリライトし、公開した記事となります。過去の情報になります事をご了承の上、ご笑覧いただけますと幸いです。
土曜日は「ふしぎ発見!」の日
今日仕事から帰宅し、家のリビングのテレビでは、「世界ふしぎ発見!(TBS系列)」がついていた。今回は逆説旅行と題して、日本の中で世界旅行をしようという題材であった。(逆説旅行という題はいかがなものかとは思いつつ、そこは置いておきます(笑))その中で、日本では神奈川にしかないラオスの寺院や外国人住人の社会包摂で成功している愛川町の特集などが組まれていた。私自身、べらべらな関西弁ではあるものの、育ちは幼稚園から高校卒業まで、そして社会人になってからはずっと川崎に住んでいる(大学は京都へ進学した)ため、ものすごく関心のあるテーマである。
「ふしぎ発見!」は以前から家ではよくテレビでついており、世界の不思議なことを調査してくれる番組であるためものすごく好きな番組である。そして今日のテーマに関しては私が京都の大学で興味を持って勉強していた「多文化共生」に関わるテーマであったので、より一層惹かれたのだ。
愛川町は多くの企業の工場が集まり、大きな外国人集住地域のひとつである。私の育った川崎と並び、「多文化共生」の先進的な取り組みをしているということで、学生時代読んでいた文献にもたくさん登場し、その記述を目にするたびに懐かしいなあと京都からこれまでの人生をなつかしんだものだ。
愛川町の「多文化共生」
その愛川町では外国人児童への手厚いサポートが進んでおり、日本語教育や個別で学習をフォローする取り出し授業で日本社会・地域社会に馴染んでいくための「日本語指導学級」を設けたりするなどの取り組みを行っており、今日の「ふしぎ発見!」でも紹介されていた。その1シーンとして、日本にいわゆる「出稼ぎ移民者」としてやってきた家族が紹介されており、レポーターがお母さんに「なぜ日本にやってきたんですか」「仕事はなにされてるんですか」と質問をしたところ、お母さんはその質問がとっさにわからず、息子がポルトガル語に翻訳し、それを理解したお母さんが「おかねをかせぐため」「(おとうさんは)ガラスをつくる(しごとをしている)」といういわゆる日本語・初級レベルで会話をするというシーンがあった。このシーンは愛川町が学校教育において日本語指導の取り組みを進めているというとてもいい例になるシーンであった。
私自身、学生時代にボランティアとして関西地域に住む外国にルーツを持つ年少者への日本語教育と、外務省管轄独立行政法人のプログラムにてインドネシアのスマトラ島にて日本語を第二外国語として学校で学んでいる高校の日本語教師のサポートという職についていたことがある。
関西地域に住む外国にルーツを持つ年少者への日本語教育は少し田舎で外国人住人がほとんどおらず、地域から取り残されてしまっているということを聞き、学校が日本語教育や取り出し授業を行えない分学生がフォローをしようということで始めたのである。
今日の議論。
この特集を見ながら、私の学生時代の研究と経験を思い出しつつ、かぼちゃ太郎のかぼちゃパパとかぼちゃママと話をしていたのだが、思わずどんどん話がおかしな方向にそれていったのでそれをご紹介したい。
太郎:「愛川町は行政として工場とか倉庫を置く会社を誘致してるから、「出稼ぎ移民」として定住 してる外国人、特に南米系の方たちが多いんよね~」
パパ:「そうなんや~知らんかったわ、やけど確かに企業は多いイメージあるなあ」
ママ:「・・・・。」黙々と編み物をしている。(ママはヨーロッパや欧米圏が大好きだが、アジアにあまりいいイメージをもっておらず、こういった事柄には関心がなく、むしろ外国人嫌悪なるものを頻発するためこういう話題にはほとんど突っ込んでこない。)
太郎:「こういう外国人がいっぱい集住してる工場地域とかは自治体が人を集めて日本語教育・母語教育支援とかちゃんとして日本社会で日本人と同じように生活して、将来の選択肢も広がるような支援してるけど、もっと田舎で外国人住人が20人とかだったりすると学校もそこまで手が回せずに地域社会から取り残されていってしまうんよなぁ」と実体験をもとに話をしてみた。
パパ:「でもそんなんしょうがなくない?それは世界中どこ行っても一緒やん。そんなんしょうがないからどうにもならへんよ」
太郎:「え、でもそんなんいうてもうたら、その子らよ―わからへん日本語の授業ぼーっときいて意味も分からへん授業一日聞いて終わりになってまうやん」
ママ:(ようやく参戦)「でもそんなんそこに行った人の責任やん。行政なんかその人らのためにわざわざなんもせーへんやろ」
パパ:「せやせや、それはそこに行った人の責任や」
太郎:「え、でも子供はひとりでそんなとこ行かへんやん。それ連れてこられた子供はなんも悪くないで」
パパ:「そうやな。それは完全に親の責任や。それは親がなんとかしてやらなあかん。そうじゃなかったらもうしゃーない。(ほっとくしかない。放置。という意味)
ママ:「そうそう」
私、かぼちゃ太郎はここで大きな心の揺らぎを感じたのだ。私の両親二人は、外国人ポツンの場合は、それはわざわざそんなとこ行く人は、自分たちの勝手な都合で行くんだから「ちょっと変わってる人」で自らコミュニティのある所に行かない本人たちが悪い、もしその子供たちがまともな日本語教育を受けずにうまく日本語を理解することができなくて日本社会でうまく生きていけないとなってもしょうがない。そう述べているのである。
「本当に日本語わかってる???」
みなさんはこのわが家での会話を聞いてどう思われただろうか。
そんなの親の責任だししょうがないよ、子供は子供で日本に住んでいるんだし、勝手に日本語うまくなるよ~、と思っただろうか。
いいや、勝手に日本語がうまくなるなんてことはないんです。いや、見た目は友達と会話を交わして楽しそうにしながら日本語が話しているかもしれません。「うん、わかってるよ~」と言ってくるかもしれません。
でも、私の経験上、見た目日本語を理解しているように見える子供であっても、国語の教科書どういうことかわかった?と聞いて問題を解かせてみるとチンプンカンプン。そして私の言ってることが分かったかそれを行動に移して示してもらおうとすると、「わかってるよ~」と言いながらも全く分かっていなかったりするのです。
みなさんは「うんうん」と言って話を聞いているかと思ったら全く話聞いてくれてなかったなんてことありませんか。つまり、話は理解できなくても雰囲気でうんうんと言っていることが多いのです。このことは大人の日本語学習者でもあり得る話ですが、さらに、大変なのが、彼らは母語を話す相手が家の家族しかいません。その結果、母語であっても日本語と同様に理解しきることが難しく、年齢相当に必要なレベルに達していないという問題もよくあることなのです。
私の支援していた子供は本当に「うんうん」といいながら実はわかっていなかったというタイプで、それが重要な課題でありました。これは言語学では「日常言語能力」と「学習言語能力」という分野の話になります。日常的な会話は理解できても、読んだり書いたり、学習に必要な言語能力が足りないという問題はよくある話なのです。
親だけですべてのことができるわけではない
親の責任とは言いつつも、親もやむにやまれずということもあるだろう。そして、子供の成長を親だけでフォローするなんてもともと無理ではないか、と思う。
そのために学校があって、専門知識をもった先生たちがいるのである。
もちろん親は一定程度の責任はある。ただ、それは「一定程度」だ。誰かに任せることは任せて、少しでも良い未来を描けるように複数の道を準備してあげることである。そして誰かの中には「行政」「まち」も含まれる。そこで生活を営む人には、しっかりとその地域になんらかの貢献をしていれば(例えば外国人であっても税金は払っている、ということを知らないネトウヨはたくさんいる)、生活者を支える義務がある。その観点が多くの人の頭の中から欠けている。もっと自分がそこで生活していることを自覚し、求めることは求めないと政治は暴走するのだ。(見ての通り)。自分が生きていくということを考えれば、そのあたりまえのことを求めることを辞めてはならない。今は大丈夫でも、人間誰もが厳しい状況に置かれるのだ。
ここで言いたかったのは、まずは自分の生きるのに必要なことは求めなくてはならない、そして自分が最低限生活できているのであれば、まずは近くの人の生活に耳を傾けてみてほしい。「うんうん」tわかっているふりをしながらも実は困っている人はたくさんいる。みんな他人には手間をかけたくないと思うから「うんうん」というのだろう。でも、「うんうん」を流さない社会の方が絶対生きやすい。
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